【Bob Dylan/ Shot Of Love】From Dark Side 和訳 Lyrics

グラミー賞、アカデミー賞など数々の賞を受賞し、ロックの殿堂入りも果たしているこの男。

2012年大統領自由勲章を受章し、2008年「卓越した詩の力による作詞がポピュラー・ミュージックとアメリカ文化に大きな影響与えた」とピューリッツァー賞特別賞。

2016年10月にはノーベル文学賞を授与され、もはやミュージシャンというより賞のタイトル保持者と言った方が良いくらいの偉大なるこの男。

でも本当はDark Sideにいた男。

その男ここにありけり。

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今日Lyraが和訳& 紹介するのは世界中の誰もが知ってる、アメリカ、ミネソタ州出身のミュージシャン、ボブ・ディランBob Dylan(1941年5月24日 – )だ。

出生名は、ロバート・アレン・ジマーマン(Robert Allen Zimmerman)

後に、自ら法律上の本名もボブ・ディランに改名した。“ボブ”はロバートの愛称、“ディラン”は詩人ディラン・トマスにちなむ(お父さんの名前から取った、と答えるインタビューもあるが。)

半世紀以上も第一線で活躍を続けるミュージシャンだ。

「Q誌の選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第18位、「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第7位、「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」において第2位、「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のソングライター」において第1位を獲得している。60年代の日本盤のレコードには「ボブ・ダイアン」と誤記されているが、今の日本人で知らない人はいないんじゃないだろうか?

おまけに、メッセージソングやプロテストソングの旗手と評されるあがめられて来たし、ジミ・ヘンドリックスは彼の歌や歌詞に心酔し、サム・クックは「風に吹かれて」を聴いて、曲が黒人ではなく白人によって書かれたとは信じられないと驚異した。

でも本人はそう言われるのが迷惑だという。

Lyraは熱狂的な心酔してるディランファンではないし、タイムリーなファンでもないし、細々した末端にある作品までゲットしていない。

だから、世界中の作品を全て網羅してるコレクターよりLyraの考えるボブ・ディラン像は大雑把な見方になるが、真実をついているだろう。

近年の賞獲得から受ける偉大なる人間ではなく、Bob Dyranと言うミュージシャンは、ただ周りにいる人間社会を見る目が鋭く、言葉遊びをするのが好きな作家なだけだと思う。

その世界が、普通じゃなかったから売れんたんだともLyraは考えている。それも、誰よりも早く目をつけ作品にしたのが良かったんだとも。

だから第一線で活躍して来たんだと。

何も奇をてらっていないのだ。

今日はBob Dyranのた〜くさんある作品群から問題作と言われ、ファンの間ではマイナーなアルバムである “Shot Of Love”から同名曲を和訳したよ。

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『ショット・オブ・ラヴ』は、ボブ・ディランの21枚目のスタジオ・アルバムで、1981年8月12日にコロンビア・レコードからリリースされた。これはディランのクリスチャン・アルバム三部作の最後と考えられている。アレンジメントはディランの過去2枚のアルバムほどゴスペルではなく、ロックに根ざしている。

ねちっこい歌詞に渋いピアノが流れてくると南部の世界が広がる。

Lyraの和訳の後で又お話しましょう。

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Shot of Love is the twenty-first studio album by American singer-songwriter Bob Dylan, released on August 12, 1981, by Columbia Records. It is considered to be Dylan’s last of a trilogy of Christiana album. Arrangements are rooted more in rock, and less in gospel than Dylan’s two previous albums.

= Shot Of Love =

I need a shot of love, I need a shot of love.
Don’t need a shot of parish to kill my disease
Don’t need a shot of turpentine, only bring me to my knees
Don’t need a shot codeine to help me to repent
Don’t need a shot of whiskey, help me be president.
I need a shot of love, I need a shot of love.

俺には愛の一発が必要だ

俺には愛の一発が必要だ

俺の病気をやっつけてくれる教区のヤリ玉はいらねぇよ

テレピンの一吸いもいらねぇから、

ただ俺を打ち負かしてくれよ

俺を後悔させるコデインの一錠もいらねぇよ

ウィスキーの一杯もいらねぇから、俺を大統領にしてくれよ

俺には愛の一発が必要だ

俺には愛の一発が必要だ

Doctor can you hear me? I need some Medicaid
I seen the kingdoms of the world and it’s making me feel afraid
What I got ain’t painful, it’s just bound to kill me dead
Like the men that followed Jesus when they put a price upon his head.
I need a shot of love, I need a shot of love.

なぁ、先生、俺の話を聞いてるか?

俺には医療扶助制度が必要なんだ

この世界の王国は、よ〜くわかってるし、そいつらは俺を怖がらすんだ

俺が手にいれた痛み止めは、俺を殺す運命にあるんだ

神に従う人間たちのように

奴らが彼の知力に値踏みをつける時は、

俺には愛の一発が必要だ

俺には愛の一発が必要だ

I don’t need no alibi when I’m spending time with you
I’ve heard all them rumors you have heard them too
Don’t show me no picture show or give me no book to read
It don’t satisfy the hurt inside nor the habit that it needs.
I need a shot of love, I need a shot of love.

お前と過ごすのに、口実がない必要はない

お前が聞いた噂も俺は全部知ってるよ

俺に証拠映像はいらねぇし、本もいらねぇや

俺は内なる痛みの欲求を満たせないし、必要な薬さえ効き目なし

俺には愛の一発が必要だ

俺には愛の一発が必要だ

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Why would I want to take your life
You’ve only murdered my father, raped his wife
Tattooed my babies with a poison pen
Mocked my God, humiliated my friends.
I need a shot of love, I need a shot of love.

Don’t want to be with nobody tonight
Veronica is not here, Mavis just ain’t right
There’s a man who hates me and he’s swift, smooth and near
Am I supposed to set back and wait until he’s here?
I need a shot of love, I need a shot of love.

何故、お前の命を奪ってはいけないんでしょうかねぇ?

お前は親父を殺しただろうが?親父のカミさんもレイプしただろうが?

毒針で彫られたタトゥーが入った俺の可愛いアイツ

嘲笑われた俺の信じる神に、自尊心を傷つけられた俺のダチ

俺には愛の一発が必要だ

俺には愛の一発が必要だ

今夜は誰とも一緒に痛くない

ヴェロニカがここにはいないし

メイヴィスもだろ?なぁ?

ここに居るのは、俺を憎んでる輩ばかり

彼は素速く、つややかで慣れ慣れしい

俺が離れて、奴がこちらへ来るまで待つと思うだろう?

俺には愛の一発が必要だ

俺には愛の一発が必要だ

What makes the wind want to blow tonight?
Don’t even feel like crossing the street and my car ain’t acting right
Called home, everybody seemed to have moved away
My conscience is beginning to bother me today.
I need a shot of love, I need a shot of love.
I need a shot of love, I need a shot of love.
If you’re a doctor, I need a shot of love.

何が今夜をひと吹きで吹き飛ばしてくれるんだろう?

道を横切るような気分に一層なるなよ、俺の車はまともに動くことをしねぇし

故郷と呼ばれた場所、もう皆んな引っ越して行ったようだ

今日は、俺の善悪の観念が俺自身を悩まし始めるよ

俺には愛の一発が必要だ

俺には愛の一発が必要だ

俺には愛の一発が必要だ

俺には愛の一発が必要だ

もしアンタが医者なんだったら、

俺には愛の注射の一発が必要なんだ

Songwriter: Bob Dylan

Translator: Lyra Sky

https://youtu.be/tSnp0OCgs3g

「ピアノ伴奏が渋いしぃ、ブルージーで雰囲気あって大人〜!」とサラッと聴ける人は、そう思うだろう。

だが、この歌詞をよーく見たらそんな「Dyranて渋いわ」とは言ってらんないよ。

これ、ぜーんぶDrugネタの曲だから。

A Shot of Loveも愛の一発とLyraがまとめたのは色んな一発だからだ。

詳しく書いても良かったけど、今日の気分はシンプルにしたかったから、あと、ダブルミーニング超えだし、スラング好きとしてはCoolにした方が合うメロディに感じたので一単語にまとめたわ。

この一発は、

ヤク中の針の一発であり、

アル中のダブルの一杯であり、

ヤリチンの一発であり、

ワクチンの合法注射の一針であり、

ダウナーの一錠でもあり、

一液でもあるのだよ。

ザッとあげただけでこんな感じ。まだLyraが思いつくの上げても良いけど長くなるからね、(☝︎ ՞ਊ ՞)☝︎

ミネソタ州に住んだことがないから地域性の性格まで把握してないけど、中西部は保守的な人達が多いイメージがある。

南部みたいな過激な思想の持ち主(保守的思想を守ろうとして過激になる性質)は、いないだろうから、直接文句言われたりはないだろうけど、当時は1980年代だから、かなり非難を受けたのではないだろうか?

まだ、ドラッグネタやこの歌詞の世界のような底辺に生きる人々はメジャーじゃないし、今みたいにSNSがなかったから情報はTVくらい、、、実態を知らない人の方が多かったんじゃなかろうか?

そう考えると凄く過激な歌詞であるし、これによって、人々に実際のアメリカ社会を見せつけたんじゃないだろうか?

こんな薄汚れた世界を汚いままに、目の前に広げられたら、見過ごすわけにはいかないではないか?

Bob Dyranは誰もがわかっているけど、あえて誰もしないようなことをサラッとやってしまうのが上手いんだ。

それも、ダブルミーニングやスラングを入れて裏社会を嫌味なく見せてしまうのが、だ。

今となっては当たり前のこの手法だが、Bob Dyranみたいな言葉遊びは、表舞台に出ている人間のなかではあまりいなかった。彼が先駆者だろう。

この曲”A Shot Of Love”の世界はアメリカのダークサイドだ。

日の当たる場所ではない。

そして、闇の世界の言葉にチラホラ神様の存在が言及される。

日陰者が神への愛と疑念に打ちひしがられた姿が浮き彫りになるのだ。

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このアルバムの前作である『Slow Train Coming スロー・トレイン・カミング』と、1980年発表の『Saved セイヴド』、1981年発表のこの『Shot Of Love ショット・オブ・ラブ』は「ゴスペル三部作」と呼ばれる。

その宗教色の強さと、どこか南部を感じさせるブルージーなセンスが強すぎて当時も今も、従来のDylanファンからは嫌われている。

Lyraはマイナー好きなんだろうか?凄く惹かれるアルバム達だ。

だから、今日選んだのだ。

だが、良い作品と感じても、当時はコンサートでBobが、これらの作品群の曲しか演奏しなかったために、ファンから批判を浴びてしまって客の動員が一気に落ちたそうだ。

その結果、後期ツアーでは、初期のヒット曲も織り交ぜた妥協案を出してツアーしたらしいから意外とDylanは、頭が固くないらしい、、、と思ったわ。固いって評判だよね?

ご本人は(笑)、この当時のサウンドにかなり誇りを持っていたようで、ライブアルバムの発表を望んだが、コロムビアに拒絶されたと言うから笑ってしまった!

あのDylanでも作品を却下されるんだと思ったら親近感が湧いたのだ。

因みにこの『Shot Of Love』のアルバム未収録曲は “Let It Be Me” 、”Dead Man, Dead Man”, Live Versionがある。

(後者は1989年「ポリティカル・ワールド (“Political World”) 」のカップリングで発表された後、『Live 1961-2000』に再録。)

本当は、もっとアイディアがあふれていて沢山、作品もあったんだけどゴスペル風はメジャーじゃないから、とカットされたんじゃないかしら。

大人の事情。なんか創造性を殺されるわ。

冒頭でDylanの本名をLyraが紹介した時にピンと来た人もいるだろうけど、Bob Dylanは元々はユダヤ教の両親の元で育った。

それが、1970年代後半にボーン・アゲイン・クリスチャン (Born again Christianity) の洗礼を受けカソリック教徒に入信したのだ。(キリスト教福音派に改宗)

それから、Dylanは暫くの間、カソリックについての歌詞やそれをベースにした詩が増える。

それについてファンや評論家の文句やジョン・レノンなどのアーティストから非難を浴びてしまう。(それについては長くなってしまうから別の機会に。ジョン・レノンは、ディランのキリスト教をすすめる歌詞に反発し、反対の意味のアンサー・ソングを書いている。)

だが、めげない、というかマイペースなBob Dylanは、1979年発表の『スロー・トレイン・カミング』で、マッスルショウルズの専属スタジオミュージシャン達の手により制作されたゴスペルを前面に出したアルバム発表をした。

ディラン初の“プロフェッショナル”なアルバムと言われたSlow Trainだが、今までのファン離れを招いたものの、売れに売れグラミー賞も獲得したからすごい。

その後、1980年『セイヴド』、1981年『ショット・オブ・ラブ』とゴスペル色まっしぐらだ。

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Dylanは時代とともに変容してきた。時代に順応する能力を持ったアーティストとも言える。

それは、時代を先取りしていたんだろう。

フォークの世界で、気づいていても誰も口にしないことを歌に乗せて公にして、アメリカ社会を浮き彫りした。

それを聞いた人々やアーティスト達がBob Dylanを自分たちの代弁者と崇めた。

だが、Bob自身は、この崇めように困惑していたし、同世代については「ほとんど共通するものも無いし、知らない」と、自分の詩が勝手に解釈され、運動の象徴として扱われることに不満を漏らしたと言う。

1960年代に結婚し2人の子供を得てからは、自分にとって一番大切なのは「平凡な家庭を築く」「自分の子供の少年野球と誕生日パーティー」と言ってるくらい平凡好きなようだ。

同じ立場でいたいんだろう。

何故ならば、彼にとって作詞作曲するネタが町にいる周りの人々だからだ。

周りと同じ立ち位置にいないと、世界が見えないからリアリティがなくなるから、それを恐れたのかもしれない。Createrの性。

今となっては、Dylanは、英セント・アンドルーズ大学や、米プリンストン大学から名誉博士号を貰って、「現行の音楽をすべて忘れて、ジョン・キーツやメルヴィルを読んだり、ウディ・ガスリー、ロバート・ジョンソンを聴くべし」と提言しているが、実際のネタは、周りにいる人々の話を見て盗んでイメージを広げて書いているのだろう。

周りの人々のネタを盗むとかいたが、何故かDylanは、歌詞や自伝で引用・盗作してると良く言われている。

ジャック・ロンドン、アーネスト・ヘミングウェイ、ヘンリー・ティムロッド、旅行ガイドからの引用も突き止められてきた。

絵画は映画「パリ、テキサス」「黒い罠」の場面からの盗用が発覚。

ジョニ・ミッチェルは、LAタイムズ紙のインタビューで、「ディランは盗作野郎で、名前も声もインチキ、まがいもの。彼と私は昼と夜みたいなもの。彼は彼。私は私。」と厳しく批判している。

盗作する奴は泥棒だ。卑怯者だ。Dark Sideに落ちたものだ。

まさかDylanがしてる、とは思いたくないが、もしそうならば許せない。

真実ならば、Dylanがもう周りの人々と同じ目線で物が見れなくなったからではないか?

世間でもてはやされ、崇められて普通の生活に憧れていても普通ではいられなくなったのではないか?

だから、生身の人間からではなくて、本や映画や自分の周りにある媒体からインスピレーションを得て、そのまんま引用してしまったのではないだろうか。

だってそれはDylanが今までやって来たことだからだ。

そう、周りにいる人々の暮らしを見てそのまんまネタにするという作り方だ。

町に座り、ある時は酒場に座り、ある時は路地裏に座って、皆を眺めていたのかも。

もちろん、実際にドラッグやマリワナをやっていたDylanだから実体験も盛り込んで曲という物語を紡ぎ出したんだろう。

だから、ゴスペル三部作と言われて嫌われているこの頃のDylanの詩や初期の頃の歌詞がグッと来るのだ。

社会に生きてるのは生身の人間だ。

その中でも、社会悪や人間悪に焦点を与えるのが得意なDylan。

その描写はリアルそのものだ。

現場を見てきたからか、Dark Sideを切り取るのが上手いのか、Dark Sideの人間だからか、

深読みすればきりがないが、Bob Dylanの歌詞がリアルなのは、その場の世界を持ってくるのが上手いからだ。

私たちは、彼の詩の世界で現実を見る。リアルなアメリカ。

アメリカの裏側をBobが切り取って来た描写で覗き見するのである。

そこにはDark Sideが広がっている。

 

現実逃避することしか頭にない男の独白。父を殺され義母を痛めつけられたから復讐しようと考えている男。

あなたはBob DylanのDark Sideの詩で何を思う?

2012年10月発売のローリング・ストーンのインタビューで米国の人種間関係について問われた際に、「奴隷主や(クー・クラックス・)クランの血が混じっている人がいれば黒人はそれを感じ取る。そういうことは今日にも残っている。ユダヤ人ならナチスの血を感じ取り、セルビア人ならクロアチア人の血を感じるように」と答えたせいで、クロアチア人に対する憎悪を煽情する発言として在仏クロアチア人協議会から告訴されたBob Dylan。(2014年4月15日にパリの裁判所により訴えは棄却された)

平和や自由を邪魔する社会に未だに怒りをもやしているのだろう。

Bob Dylanの戦いはまだ、終わらないのだ。

Dark Sldeに魅せられた男。

そんな悪な男は、平凡な家庭に憧れながらDark Sideに想いを馳せていくのだろう。

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= Bob Dylan =

Robert Allen Zimmerman
別名
ブラインド・ボーイ・グラント
ラッキー・ウィルベリー/ブー・ウィルベリー
ジャック・フロスト

1941年5月24日(76歳)
アメリカ合衆国ミネソタ州ダルース
出身地
ミネソタ州 ヒビング
学歴
ミネソタ大学中退
ジャンル
ロック
フォークロック
フォーク
ブルース
カントリー
ゴスペル

ミュージシャン
シンガーソングライター
担当楽器
ボーカル
ギター
ベース
ハーモニカ
キーボード
ピアノ
活動期間
1959年 – 現在
レーベル
コロムビア(ソニー)
アサイラム
共同作業者
ザ・バンド
トラヴェリング・ウィルベリーズ
グレイトフル・デッド
トム・ペティ
ジョーン・バエズ
公式サイト
www.bobdylan.com
ノーベル賞受賞者ノーベル賞
受賞年:2016年
受賞部門:ノーベル文学賞
受賞理由:米国歌謡の伝統の中に新しい詩の表現を創造したこと
「風に吹かれて」「時代は変る」「ミスター・タンブリン・マン」「ライク・ア・ローリング・ストーン」「見張塔からずっと」「天国への扉」他多数の楽曲により、1962年のレコードデビュー以来半世紀以上にわたり多大なる影響を人々に与えてきた。

1941年5月24日、ミネソタ州ダルースに生まれる。

ヘブライ語の名はシャブタイ・ツィメルマン(シャプサイ・ジスル)(イディッシュ語: שַׁבְּתַאי זיסל בֶּן אַבְרָהָם צימערמאַן‎‎ Šabsay Zisl ben Avrohom Tsimerman)。ジスルはイスロエルの愛称。祖父母はロシアのオデッサ(現ウクライナ)やリトアニアからの移民であり、父エイブラハム・ジマーマンと母ビアトリス・ストーン(愛称ビーティー)は小規模だが絆の固いミネソタのアシュケナジム・ユダヤ人の一員だった。1946年、弟デイヴィッド誕生。1947年頃、一家はヒビングに転居する。

幼少時より家にあったピアノを独習。「ラジオを頻繁に聴いていた。レコード店に入り浸り、ギターをかき鳴らし、ピアノを弾いて、自分の周りにはない別の世界からの歌を覚え」て育つ。

初めてのアイドルはハンク・ウィリアムズ。ハイスクール時代はロカビリーの全盛期で、ディランもまたエルヴィス・プレスリーらにあこがれバンドを組んで演奏活動を始める。ハイスクールの卒業アルバムには「リトル・リチャードと共演すること」が夢だと記したりもしている。1959年夏、ノースダコタ州ファーゴでエルストン・ガンという名でボビー・ヴィーのバンドにピアノ弾きとして入り、彼のバックでステージを数回経験する。

1959年9月、奨学金を得てミネソタ大学に入学するも半年後には授業に出席しなくなる。持っていたエレキ・ギターをアコースティック・ギターに交換。ミネアポリスでフォーク・シンガーとしての活動を始めこの時にボブ・ディランと名乗っていた。「ボブ」はロバートの愛称ボビーから、「ディラン」は詩人のディラン・トーマスから取ったとも、また叔父の名前であるディリオンから取ったとも述べている。

アメリカ土着のブルース、ヒルビリーへの傾倒を深めていたこのころ、ウディ・ガスリーのレコードを聴き大きな衝撃を受ける。

1961年冬、大学を中退してニューヨークに出てきた彼は、グリニッジ・ヴィレッジ周辺のフォーク・ソングを聴かせるクラブやコーヒーハウスなどで弾き語りをしていたが、やがてハリー・ベラフォンテのバックで初めてプロのレコーディングを経験。

キャロリン・ヘスターのレコーディングに参加したことや、タイムズ紙で好意的に論評されたことをきっかけに、コロムビア・レコードのジョン・ハモンドにその才能を見出され、1962年3月にアルバム『ボブ・ディラン』でレコードデビューする。しかしその年の売上は5,000枚程にとどまり、コロムビアの期待していた3分の1というセールスであった。

当初は、トラッド・フォークやブルースを中心に歌っており自作曲は少なかったが、ニューヨークで出会った人達、絵画、ミュージカル、レコード、ランボー、ヴェルレーヌ、ブレイクといった象徴主義的な作風の詩人の表現技巧など、さまざまなものに創作上の影響を受け、急速にくの新しい歌を書くようになる。

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