朝起きて、チャックが天国に召されたことを知った。
悲し過ぎて実感がわかない。
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チャールズ・エドワード・アンダーソン・ベリー(Charles Edward Anderson Berry、1926年10月18日 – 2017年3月18日)はアメリカのミュージシャン・ギタリスト。「チャック・ベリー(Chuck Berry)」の名で知られている。
ロックンロールの創始者の1人と言われている。
彼の生き様自体がロックンロールよね!
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「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第41位
「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」において第5位。
「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のギタリスト」において2003年は第6位、2011年の改訂版では第7位。
チャックの輝くロックンロールの功績は数えきれない。
90歳だったとは、当たり前だけどびっくり。
こんだけ長い間ロックンロールし続けていたんだから、90歳だったのは理解できるけれど、いつまでも現役でロックし続けて来たから、若くて格好良くてお茶目。
だから、チャックが私達の前を、常に歩いていてくれる、と言うのが当たり前に思えていた。
ロックンロールし続けてくれて私達を楽しませてくれて、生き様を見せてくれると、永遠にやってくれると、思っていたから、、、だから。
いきなりで、穴があいたみたい。
警察に通報されて病院で亡くなったらしいけれど。
今は言葉にならない。
私がチャックを知ったのは、多分「メイベリン」を歌ってる白黒のライブを見たのが初めてだったんじゃないかな?
もしかしたら、もっと小さい時にラジオから流れて来るチャックのロックチューンをたくさん聴いてたかもしれないけれど。
妙に、あの大きなお目々をギョロッつかせて、Maybeliene〜♪とギター弾きながら歌ってたのが印象的で、幼稚園くらいだったけれど、Lyraは、「面白くて楽しい曲!」と思ったんだよね。
そして、大きくなってJohnny B. Goodをバンドでよく歌ったよ!
もちろん、チャックのオリジナルバージョンでも歌ったし、ロックンロールバンド以外で、ヘビメタバンド掛け持ちでやってた時は、Judas Priest Versionで歌ったりもしたよね。
チャックの曲はメロディが凄くキャッチーで覚えやすいから、アレンジしやすい!
だから、だと思う、色んなジャンルのバンドに愛され、色んな味付けをされて、色んなカバーやアレンジされて来たんだって、、、。
私、チャックのおかげで1つのリプでいろ〜んな味わいを幾つでも出せるんだって教わった!
それに、ロックンロールて悲しい歌や暗い歌詞があるけど、根っこは、そんなダークさも楽しんじゃえっていう笑いも必要なんだってね、感じましたよ。
もち、パフォーマンスもね!ロックには必要!
チャックみたいにダックダンスは上手くできないけれど(笑)、ロックして行くには、(生きていくには)魅せるってのも大事なんだよね。
そして、楽しむことを忘れちゃいけない。
教えてくれてありがとう!
天国で安らかに、チャック!
でも、寂しいよ。
ねぇ、ギターかき鳴らしてよ!
そして、月夜の夜には、天国からチャックの素敵なロックンロールを聞かせて欲しい。
きっとチャックならやれるよ!
不可能を可能にした、ブラックのロックンローラーなんだから!
いつまでも、天国でもロックンロールし続けてね!
R.I.P.
出生名 Charles Edward Anderson Berry
別名 Chuck Berry
生誕 1926年10月18日
出身地 アメリカ合衆国 ミズーリ州セントルイス
死没 2017年3月18日(満90歳没)
ジャンル ロックンロール
ブルース
職業 ミュージシャン
ソングライター
担当楽器 ギター
ボーカル
活動期間 1955年 –
レーベル チェス・レコード
共同作業者 ジョニー・ジョンソン
公式サイト http://www.chuckberry.com/
著名使用楽器
ギブソン・ES-335
ファイル:Rock Rock Rock(1956).ogvメディアを再生する
Chuck Berry, You can’t catch me, 1956
特徴的なギターリフを使った音楽スタイルは後輩ロックミュージシャン達に多大な影響を与えた。また、社会的メッセージが込められた数々の歌は、1950~60年代の若者に共感された。80歳を超えて以降もステージ活動を続けた。
ベリーを敬愛しているジョン・レノンは「ロックンロールに別名を与えるとすれば『チャック・ベリー』だ」と述べている
1986年にロックの殿堂入りを果たした際に殿堂は「ロックンロールを創造した者を一人に限定することはできないが最も近い存在はチャック・ベリー」としている
1926年、6人兄弟の3人目の子としてミズーリ州セントルイスに生まれる(一部の伝記では、カリフォルニア州サンノゼ生とする説もあり)。父親はバプテスト教会の執事も務める建設請負業者で、母親は教師というセントルイスの中流家庭で育った彼は幼少時から音楽に興味を示した。6歳の頃から聖歌隊に加わり、高校時代には初めて人前で演奏した。一方、不良仲間に影響され様々な悪事に手を染めた。高校卒業直前の1944年に自動車強盗の罪で感化院へ送られるが、1947年に釈放された。
1953年、ピアニストのジョニー・ジョンソン率いるサー・ジョン・トリオにギタリストとして加入する。間もなく、ジョンソンに代わってベリーがこのバンドのリーダーとなった。彼のステージを見たマディ・ウォーターズの口利きによって1955年、チェス・レコードと契約し、シングル「メイベリーン」(全米5位)でデビューした。独特のギター奏法とギターを弾きながら腰を曲げて歩く「ダックウォーク」が話題となった。
1956年にはシングル「ロール・オーバー・ベートーヴェン」(全米29位)等がヒット。1957年、最初のアルバム『アフター・スクール・セッション』を発表した。シングル「スクール・デイズ」(全米3位)、「ロックンロール・ミュージック」(全米8位)等がヒット。翌1958年には2枚目のアルバム『ワン・ダズン・ベリーズ』を発表し、シングル「スウィート・リトル・シックスティーン」(全米2位)、「ジョニー・B.グッド」(全米8位)、「キャロル」(全米18位)等がヒットした。1959年には3枚目のアルバム『ベリー・イズ・オン・トップ』を発表した。
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いくつかのヒット曲を発表し、公演旅行を行った後の1959年12月、ベリーはメキシコで出会った14歳のウェイトレスを連れ回し売春を強要した容疑で、マン法(Mann Act, 不道徳な目的のために女性を州境を越えさせることを禁じる)に違反したとして逮捕され「懲役5年と罰金5,000ドル」が下った。
やがて、ロックにとって最初の闇の時代が始まった。エルヴィス・プレスリーの徴兵とリトル・リチャードの引退(1958年)とバディ・ホリーの事故死(1959年)が続き、さらに翌1960年にはイギリスでも、エディ・コクランとジーン・ヴィンセントが交通事故に遭い、コクランが死亡している。ベリーに対する判決・懲役5年は後に3年に減刑されたが、マン法はベリーのようなアーティスト達を狙い打ちするための法律とも言われており、その逮捕と判決には黒人差別意識も少なからず影響していると考えられている。べリーは刑に服した後1963年に釈放された。
3年間の刑務所生活があったにも関わらず、ベリーはデビューからの10年間で30枚以上のシングルを発表し、1960年には4枚目のアルバム『ロッキン・アット・ザ・ホップス』を発表している。しかし、必ずしも全てがヒットとなった訳ではなかった。1964年、ビートルズやローリング・ストーンズ等の人気バンドがベリーの曲をカバーした[4]ため、ベリー自身の人気も再浮上し、シングル「ネイディーン」(全米23位)、「ノー・パティキュラー・プレイス・トゥ・ゴー」(全米10位)、「ユー・ネヴァー・キャン・テル」(全米14位)等がヒットした。
1972年、アルバム『ロンドン・チャック・ベリー・セッションズ』(全米8位)、シングル「マイ・ディンガリング」(全米1位)、「リーリン・アンド・ロッキン」(全米27位)がヒットした。
1979年、脱税の罪で逮捕されるが、年内に釈放された。
1981年に初の日本公演を行っている。
1986年にロックの殿堂入りを果たした際に殿堂は「ロックンロールを創造した者を一人に限定することはできないが最も近い存在はチャック・ベリー」としている
また同年、キース・リチャーズがオールスターのバンド・メンバーを集め、ベリーの故郷セントルイスで、生誕60周年記念コンサートが行われた。このときの様子は、テイラー・ハックフォード監督によって記録され、翌年映画『ヘイル!ヘイル!ロックンロール』として公開された。ひとりのファンとしてベリーの音楽を記録したいというキース・リチャーズの熱意が感じられるのと同時に、ベリーの破天荒な性格が伝わる興味深い内容となっている。
2000年、舞台芸術分野における貢献者に与えられるケネディ・センター名誉賞を授与される。
2005年、著作権を侵害されたとしてカラオケ業社3社を訴えた。
2008年には、日本テレビ開局55年のキャンペーン「日テレ55」にて「Johnny B. Goode」の替え歌を自ら披露している
2017年にはオリジナルアルバム『Chuck Berry』を発表する予定だったが、3月17日に死去した。90歳没。
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